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たかはしりおこのなんてことないブログ

マルハラのはなし

マルハラ。LINEとかで文章の最後に句点「。」をつけるのが、若い子には嫌がられてしまうという話。

個人的にはハラスメントなわけないじゃん、あほくさ……と思うのだけれど、確かにわたしもLINEやTwitterだと「。」をつけずに文を打つことが多い。これ、Twitterだと投稿を「つぶやき」と呼ぶし、LINEも吹き出しで表示されるから、話し言葉として使っているからなんだと思う。全部鉤括弧でくくって台詞として扱うなら、最後に句点をつける必要がない。

全然関係ないけど、最後に句点をつけるのが禁忌で、間違えてつけるとその句点を「ゴミ」と呼ぶ界隈、そういう掲示板が一部にある。理由はよくわからないのだけれど、それを独自のルールとして歴史を重ねていること、これはこれでおもしろい文化というか、句読点問題に関係しているのかいないのか、興味深いことであるな~と思っている。

大丈夫

行き場がなくても大丈夫

 

というメモを書いていた。つい先日のこと。

それをすっかり忘れていて、今日、「居場所がないな」と思っていた。

そしてメモを見つけた。

行き場も、居場所もないわたし。

じわりと汗ばみながら布団に横たわるわたし。

大丈夫とは到底思えないきょうのわたし。

会いたい/会いたくない

20年ほど前、学校でよく「昨日駅にいた?」と訊かれた。訊かれた日に駅にいたことはまったくなく、一度ではなく何度も何度もあったので、ほんとうに自分にそっくりな人間がいるのだろう、と思った。ドッペルゲンガー。会ったら死ぬなんて言われている。

それから時は経ち、先日。母親から「昨日どこそこにいた?」と訊かれた。車で信号待ち中に見かけた人がわたしにそっくりだったという。わたしは学生時代何回も考えたドッペルゲンガーのことを思い出していた。

母が見かけたそのひとは、昔友人たちが見た彼女と同じ人物なのだろうか。だとしたら、同じような年代なのだろうか。同じように学生時代を生きて、社会人になって。そう考えたら、話をしてみたくなった。自分にそっくりの見た目をした人間。逆に、わたしがそのへんを歩いていて彼女に間違えられたこともあるのかもしれない。

まあ、実際に会ってみたら自分では全然似ていないと思うかもしれないし、すれ違っても気付かないかもしれないし、もしほんとうに似ていたとしても見かけたくらいでは話しかけられないだろう、とは思う。